プロティアン・キャリアへの道 ~ 第1回「長崎から船に乗って」
スタッフのムラセと申します。
「大阪市就労チャレンジ事業」を担当しています。
2021年5月にA´ワーク創造館に転職してまいりました。
2021年5月にA´ワーク創造館に転職してまいりました。
なぜ、この仕事を選んだのか?をいまさらながら綴ってみます。
■長崎から船に乗って
私は、1970年、大阪万博の年に大阪府茨木市で生まれました。
(母には、「あんたが生まれたから万博に行けなかった」と愚痴られましたが、そんなん知らんがな)
(母には、「あんたが生まれたから万博に行けなかった」と愚痴られましたが、そんなん知らんがな)
なんの不自由もなく、のほほんと育ちました。
ただ、小学校高学年では、まったく勉強についていけなくなりました。
ただ、小学校高学年では、まったく勉強についていけなくなりました。
わからないところがわからない。
当時は「おちこぼれ」と言われていましたが、もしかすると、学習障害があったのかもしれません。
小学校の担任には「無視」される始末。
小学校の担任には「無視」される始末。
中学、高校でも全く勉強は出来ず、成績はいつも下の方。
高校では、ひたすらアルバイト生活で小遣いを稼いでいました。
高校では、ひたすらアルバイト生活で小遣いを稼いでいました。
高校卒業で就職する実力もなく、かといって、大学に進学するための学力もなく、消去法で専門学校に進んだのでした。
時は、おりしもバブル経済真っただ中。
野性的な「カン」だけは鋭く、いつまでもこんなおかしな好景気は続かないとも感じていました。
もし、何浪もして大学に進んでいたとしたら、卒業するときはバブル崩壊とともに訪れた失われた20年の入り口。就職氷河期時代での就活となるところでした。
野性的な「カン」だけは鋭く、いつまでもこんなおかしな好景気は続かないとも感じていました。
もし、何浪もして大学に進んでいたとしたら、卒業するときはバブル崩壊とともに訪れた失われた20年の入り口。就職氷河期時代での就活となるところでした。
それが、親のスネをかじり倒して専門学校を選んだのは、今から思えばラッキーとしか思えません。
卒業してから入った会社は、なんと船会社。
この年の春就航する、神戸と横浜を結ぶ「豪華客船」の
オープニングスタッフとして入社したのでした。
私のキャリアのスタートです。
この年の春就航する、神戸と横浜を結ぶ「豪華客船」の
オープニングスタッフとして入社したのでした。
私のキャリアのスタートです。
初めてもらった保険が「船員保険」、働くために取得した「船員手帳」、オープニングスタッフなので一緒に働く人は、全員素人。
マネージメントする人も、親会社の飲食業から来た人でこれまた船の仕事はわからないことだらけ。
毎日手探り状態の中、スタートを切らなくてはなりません。。
マネージメントする人も、親会社の飲食業から来た人でこれまた船の仕事はわからないことだらけ。
毎日手探り状態の中、スタートを切らなくてはなりません。。
研修場所は長崎佐世保。就航場所は神戸、横浜。
まさしく、長崎から船に乗って神戸に着いたのでした。
まさしく、長崎から船に乗って神戸に着いたのでした。
配属はメインダイニングというレストランでした。
約2か月を経とうとしていたころ、腰を痛めてしまいました。
乗船勤務が難しくなり、陸上勤務の人事のような仕事に配属されることになったのです。
約2か月を経とうとしていたころ、腰を痛めてしまいました。
乗船勤務が難しくなり、陸上勤務の人事のような仕事に配属されることになったのです。
とにかく、船の業務はストレスが溜まります。
仕事が終わっても、家に帰ることもできず、プライベートな空間はほとんどなく、勤務時間もかなり長く、それによって離職率も相当なもの。
今から思えば、ブラックですね。当時は、これが当たり前でした。
仕事が終わっても、家に帰ることもできず、プライベートな空間はほとんどなく、勤務時間もかなり長く、それによって離職率も相当なもの。
今から思えば、ブラックですね。当時は、これが当たり前でした。
なので、ほぼいつでも求人をしていて、まだ20歳の若造が偉そうに面接などを行っていました。
なんとなくですが、この仕事のおもしろさを感じ始め、将来は社会保険労務士を目指したいとかすかに思い始めたころ、事業が停止されたのです。
なんとなくですが、この仕事のおもしろさを感じ始め、将来は社会保険労務士を目指したいとかすかに思い始めたころ、事業が停止されたのです。
理由は、「客が来ない」以上!
神戸と横浜なんて、当時でも新幹線で3時間かかりません。
そんな中、21時間かけて船で行こうと思う人なんてほとんどいなかったのです。
1年目は大阪で花博がありましたから、それなりには来たのですが、2年目は目も当てられないぐらい来ませんでした。
そんな中、21時間かけて船で行こうと思う人なんてほとんどいなかったのです。
1年目は大阪で花博がありましたから、それなりには来たのですが、2年目は目も当てられないぐらい来ませんでした。
それに、神戸から横浜に行こうと思うと、太平洋に出なければなりません。
太平洋は、波が高くとにかく揺れるのです。そうなると、リピーターもほとんどいません。
「二度と乗るか」と吐き捨てながら降りて行ったお客様は数知れず…
太平洋は、波が高くとにかく揺れるのです。そうなると、リピーターもほとんどいません。
「二度と乗るか」と吐き捨てながら降りて行ったお客様は数知れず…
ということで、初めての就職は、会社都合ということでクビになりました。
22歳の出来事でした。
22歳の出来事でした。
これが私の波乱のキャリアの幕開けです。
このあと、ジェットコースターのようなキャリアが続きます。
どうぞ気長にお付き合いください。
このあと、ジェットコースターのようなキャリアが続きます。
どうぞ気長にお付き合いください。
第2回「長崎から船に乗って」を読む
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