プロティアン・キャリアへの道 ~ 第7回「日はまた昇る / ああ無情」

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■日はまた昇る

その頃は、日雇いのような状況で定期的な収入がありませんでした。それではいけないと思い、看板屋さんのアルバイトに行くことにしたのです。
面接の日、妻が仕事に行っており、保育園児の娘の面倒を見ながら面接に行かなくてはならなくなりました。といっても、さすがに面接に同席させるわけにはいきません。仕方なく、ホームセンターのペット売り場に連れて行き、ここでしばらく待っているように伝え、面接に向かいました。

面接が終わり、急いで娘のところへ向かいました。ところが、ペット売り場に娘の姿はありません。
慌ててその辺を探してみると、少し離れた売り場で悲しそうな顔の娘がいました。その顔を見た瞬間、あまりにも情けなくて涙が止まりませんでした。このときの想いは、おそらく一生忘れることができない原点となっています。

無事に、看板屋さんでアルバイトができることになりました。私なりの、職業訓練の始まりです。約4か月間、そちらでお世話になりました。とてもいい会社で、社員の話もいただいたのですが、条件が合わず、結局そちらは辞めることになりました。

代わりに探したのは「派遣」という働き方。
看板屋さんで、自分のスキルが通用すると確認したため、DTPが使える「派遣」を探したのです。そうすると、ある仕事を見つけました。
「DTPのサポート業務。お客様へのレクチャーやイベントの企画。」
以前使っていたカラーコピー、X社系列の派遣会社でした。

派遣先は、まさしくX社の販売会社。自分の人生に影響を与えてくれた、恩人のような会社です。なにより、自分がやってみたい業務内容でした。とともに、この会社に恩返ししたいと思う気持ちもありました。コネを使わず、自分の想いで選んだ仕事。顔合わせもうまくいき、この会社の「派遣社員」として勤務するようになりました。

ようやく、負の連鎖が断ち切れました。
35歳の6月のことでした。



■ああ無情

複写機の販売会社X社への勤務が始まりました。私が入社したころは、300名弱ぐらいの社員数だったと思います。といっても、今まで務めたことがない大きな会社。場所も大阪市内のど真ん中で、これまた初めての経験。

仕事は、営業のサポート。
データ検証やトラブルサポート、イベントの企画なんてものもありました。やりたいことをどんどんやらせてくれる。とにかく、毎日が楽しい。2年間、地獄のような日々を過ごしたのも忘れるぐらい、充実していました。
(2年間の生活費に相当する、莫大な借金はありましたけど)

3年経ったとき、中途採用の募集が出るから応募してみないかと打診がありました。派遣社員をそのまま雇用すると問題になるから、ちゃんと表玄関から入ってこいと。
「じゃあその試験に落ちたら、また派遣で雇ってくれるのですか?」
みたいなやり取りをさせてもらったのを覚えています。自分が勤めている会社に面接に行くという、とても奇妙な経験でした。

おかげさまで無事採用され、晴れて正社員での勤務となりました。複写機の業界は、安定しているとはいえ年々厳しくなっています。メーカーと販売会社の再編などを繰り返しており、私が正社員になったころは、1000人を超える会社になっていました。今まで、使うことができなかったメーカーの仕組みなども、販売会社で活用できるようになったのです。
(メーカーと販売会社では、待遇が全く違うのです)

ある制度を活用して、新規事業提案をすることにしました。
というのも、厳しくなっている状態を少しでも食い止めたいという思い、少しでも恩返しができればという思いもありました。この提案が一部受け入れられ、私は横浜の開発部隊へ行くことになりました。
でもそれは、いやいやだったのです。


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