プロティアン・キャリアへの道 ~ 第6回「帰らざる日々 / 翳りゆく部屋」

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■帰らざる日々
DTPが導入され、とにかく必死に勉強しました。
Macのことやネットワークのこと、パソコンや周辺機器などもがむしゃらに勉強したものです。これまでデザインは勉強したことがありませんでしたが、IllustratorやPhotoshopを使うと、何とかなる気がしていましたし、実際なんとかなっていきました。

メニューやPOP、ポスターやチラシなど、年間100点を超える数を制作していました。制作だけではなく、店舗の売り上げをどう上げるのかを考える、マーケティングも少し考えながらの業務。X社のカラーコピーも大活躍。
とにかく毎日が楽しく、充実した日々を送っていました。

ところが、じわりじわりと会社が傾いていったのです。
もともと、船の事業失敗で莫大な借金があると言われていました。その後、阪神淡路大震災に見舞われたのです。物流拠点や、数店舗が被害に見舞われました。私がいたハーバーランドの店も、長期にわたってオープンできない状態が続きました。

その後、決定的なある事件が起きました。狂牛病と言われたBSEです。連日のような恐怖を煽る、マスコミの報道。それによる、牛肉離れ。顧客離れ。焼肉をメインとしたレストランでしたので、大打撃でした。各社への支払いも滞るようになり、従業員の給料も遅配という事態に陥りました。

ある店長の一人が、つぶやきました。
「辞めるも地獄、残るも地獄。」
私は、結婚し子どももいましたが、この会社を去る決断をしました。

このとき、33歳。
本来であればこれから脂が乗ってくる、働き盛りの入り口での失業。
この後、2年間地獄を見ることになるとは、このときは思いもしませんでした。



■翳りゆく部屋

給料遅配が一回でも発生すると、会社都合で退職することができます。会社都合で退職すると、失業手当がかなり短い待機期間で支給されます。船会社を退職した時も、会社都合でしたのでその時も失業手当をいただける権利はあったのですが、すぐに就職したので手続きをしませんでした。今回は、後先を考えず退職をしたので、失業手当をもらうことにしました。

まだ33歳。仕事はまだまだいっぱいあるわとタカをくくって、求職活動らしいこともせず、まだ保育園に通う娘の子育てをしながら、ぶらぶらする毎日を過ごしていました。

そうするうちに、だんだんと迫りくる手当打ち切り期限。なんとなく焦りだしたのは、手当が打ち切られる2か月前ぐらいです。
ところが、これまた自分のやりたいことがわからない。デザインチックな仕事をしてきたものの、デザインの勉強などもやっていないので、プロで通用する自信などまったくありません。どんな仕事があるのかもろくろく調べることもなく、いたずらに時が過ぎて行ったのです。

約半年が過ぎ去ろうとしていたとき、船会社の先輩から電話がかかってきました。その方のお父さんが事業を立ち上げようとしているから、手伝ってほしいと。またまた、知り合いからの声掛けです。なんとなく、焦っていたのであまり考えることなく入ることにしました。

ところが、全く会社の体をなしていない。
社会保険関係は一切なく、事業自体もとても怪しい。私に声をかけてくれた先輩は、途中で辞めて逃げてしまう。結果、給料も出なくなりました。
ある方に助けていただき、この会社を脱出することはできたのですが、その後も人に騙されたり、まともな仕事に就くことができないまま、約1年が過ぎていました。私の半生最大の暗黒時代です。こんな人間を、ちゃんと雇ってくれるところなんであるわけがないと思い込んでいました。そんな中、「派遣」という働き方に気が付いたのでした。

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